若林天満宮(北野神社) 世田谷区若林3-34-16
創建:応永八年(1401)以前
御祭神:菅原道真公
武蔵国深大寺の住僧長弁花光坊の「私案抄」に、応永八年(1401)にここで連歌法楽を興行したと記載。
ご神体は石で“石天神”と称せられており、江戸時代には牛に乗った天神が御祭神で“牛天神”と称されていたそうです。また境内にある井戸には白蛇が棲んでいると伝えられてきました。
菅は虫歯の病気に霊験あらたかで、虫歯をやんだ時は天神に祈り、神殿の格子戸にさげた房楊子を借りて治療し、治ったならば新らしい房楊子をあげる習慣があったそうです。(せたがや社寺と史跡より)
環状七号線の拡張工事のため大きく境内を削られてしまいましたが、その昔は子どもたちの遊び場はもちろん縁日も開催されるほどの広さでした。
昔は参拝される方も多く、お礼参りに持ってくる梅の盆栽が境内所狭しと並んでいたそうです。当時の名残りである梅の木が、現在も境内の庭で見事な紅梅の花を咲かせています。
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「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。
菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。
延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。
菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。
やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。
そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。菅原道真は北野社に天神(雷神)として祀られることになりました。